悲しみの始まり 1

C.E.70 2月1日。
不穏な足音が近づいていることを認識している人は、まだ少なかった。


キンコン、とベルの音が屋敷に響く。 ガチャリとドアの開く音が続き、近頃は別邸にいることが多かった父、テオ・がノウェンベルの本邸に帰宅した。 家にはいくつかの決まりごとがある。 用事でL5コロニー郡を離れる際には出発前に家族で集まること、というのもその一つだった。 明日は母も帰宅し、四人で昼食を共にした後、父は地球のプラント理事国との会議のために月面へと出発する。 忙しい仕事の合間をぬっての帰宅で、その日の夕食は珍しく父と兄との三人だった。
、仕事はどうだ」「、学校はどうだ」
ワイングラスを傾けながら言葉少なに父が話す。 も近況を話すとそのあとは兄妹の会話が食卓に響いた。


「お父さま、やはり戦争になるのでしょうか?」
食後のお茶の時間、ふと会話が途切れた瞬間に口から溢れた言葉に自身も驚いた。 問いかけるにしてもあまりに直球過ぎた。 しかし年明けからテロで死人が出、護衛と共に行動している身からすると今一番気にかかっていることだ。 毎日何かしらの形で嫌なニュースが目についてしまうのも事実だった。
父は眉間に皺を寄せて、視線を下に落とし、少しの間をおいて口を開いた。

「状況は逼迫している。色々と気をつけて、護衛のそばを離れないように。 お前たちには、出来る限り普通の生活を送って欲しい」
「そうだね。僕はともかく、の生活は普通に、ね」
いつも自分よりも妹を優先する兄が続けて話す。 最年少だから、仕方ないとはわかりつつもいつも自分のことが優先されてしまうことで無力感が募る。 確かに議員の仕事をしている父や兄に比べて自分の出来ることはほとんどない。 せいぜい、心配をかけないように大人しく学校に通うくらいが今の自分に出来ること。それだけしか出来ない……。


「お父さまも、お気をつけて……」
父が向かう月面はあまりにも地球に近すぎる。 本当の心の内ではそんな場所には行って欲しくないが、それは口に出すべきことではない。 父がの言葉に頷いたところで、食後のお茶の時間は終わった。



***



二月四日。
「国連事務総長の呼びかけにより、月面にて行われる理事国との会議に出席するため、プラントを出発した 最高評議会の議員が月面に到着しました。 今回の会議では先日地球への輸出が停止された件について話し合われると思われ──
昔はテレビのニュースで自分の姓を呼ばれると少し不思議な気分になったものだった。 テレビの中に映る父は相変わらず眉間に皺を寄せている。
「なお、最高評議会議長のクライン議長は使用予定のシャトルの故障のため、出発が遅れているとのことです。 次のニュースです」



***



二月五日。
「緊急ニュースです」

夕方、付けっ放しにしていたテレビからニュース速報のチャイムが聞こえた。 レポート作成の手を止めてテレビに視線を移す。 ニュースを聞くついでに少し休憩にしよう、お茶かコーヒーのどちらを飲もうか、なんて考えていたらアナウンサーが恐ろしいことを告げた。

「国連事務総長の呼びかけにより月面にて開催される会議の会場にて、爆弾テロが発生したとの情報が入ってきました。 詳しい情報が届き次第、順次お伝え致します」

月面会議の会場で、爆弾テロ? そこは父が行っている場所だ。 テロって、会場のどこで? 父がいた場所か? まだホテルにいる可能性は? 会場に誰もいない状態で爆破させても意味はないだろう、とするとやはり会場入りしている……?
頭の中でいろんなことがグルグルと入り乱れる。
電話をかけてみればいい? でも仕事中は繋がらない。 出てくれる可能性なら父本人よりも秘書の方がいいのではないか?

通信機を手にして、とりあえず父の秘書にかけてみることにした。 コール音が響いて繋がっているという事実にひとまずほっとするが、数秒後にぶつんと切れてしまって背筋がゾッとした。 テロの影響で繋がりにくいだけかもしれないと自分に言い聞かせるように思う。

「……………」

一度試しただけでダメだと決めつけるのは早計ではないか……。やっぱり父に直接連絡を……。 一瞬がとてつもなく長く感じられる。意外と震えていない指で父に直接連絡を入れてみた。 先ほどと同じようにコール音のあとぶつりと切れた。何度か試してみてもやはり繋がらない。 しまいにはコール音まで鳴らなくなった。不安が加速していく。 テレビのニュースに目を移すと、父の存在について触れているところだった。

「会議の会場には最高評議会の議員が居た可能性があり、安否確認が急がれています」




夜。
二十一時過ぎにが帰宅した時、はリビングのソファでぐったりと座り込んでいた。 テレビでは繰り返し繰り返しテロのニュースが流れている。

が声をかけるとはびくりと肩を揺らし、パッと振り向いた。強張った表情が痛々しい。
「兄さん……何か……連絡はあった?」
「ニュース以上のことはまだ分からないそうだよ。明日の朝一番でアプリリウスに行こう。 母さんとは向こうで落ち合うことになった」
「そう……」
は両手で顔を覆い、下を向いた。
「真っ青だよ、。部屋で横になった方が……」
「部屋なんて行っても落ち着かないから……ここにいる……」

テーブルには水の入ったボトルがポツンと置かれている。 夕食の時間はとっくに過ぎているが、食欲なんてわかないし紅茶やコーヒーを飲むような気分にはとてもなれない。 二人は並んで座りながら、ニュースを見続けて夜を明かした。



***



二月六日。
アプリリウスのステーションで母と落ち合い、別邸へと移動した。 ここにいる方がノウェンベルに居るよりも情報が早く届くような気がした。
テレビのニュースをつけて、はソファに座りこむ。 重りをつけられたかのように体が重かった。 は端末でいくつか思い当たる人に連絡してみたが、やはり新しい情報は無かったようだ。 ニュースのアナウンサーは父の安否が不明なことと、クライン議長が無事であることを伝え続けている。

眠ることも出来ず、食べ物も喉を通らず、辛うじて水だけを摂っている。 ひょっこりと父が帰ってきたりしないか、突然連絡が入ったりしないかと繰り返し考えてしまう。
の端末が震えたのは朝九時をまわったところだった。端末の画面にはニコルと表示されていた。


?」
「ニコル……」
優しい幼馴染の声に、震えた声で名前を呼ぶだけで精一杯だった。
「眠れたり食事が出来たりしていればいいんですけど……」
「とても無理かな……」
「そうですよね……」
「うん……」
結局、碌な会話も出来ず、二言三言交わして通信を切った。 心配してくれることは嬉しいけれど、とても会話する気にはなれない。 とにかく確かな、無事だという連絡が欲しい。待つ以外に何も出来ないことがもどかしかった。


の端末が鳴ったのは昼を過ぎた午後のこと。 とても食事とは言えない昼食を済ませて、ニュースを流しながらぼんやりと過ごしていて、時間の感覚もなくなり始めたところだった。
「はい!」
珍しく焦った声で兄が通信に応える。
「アマルフィ議員……」
通信相手はニコルの父親であるユーリ・アマルフィらしい。彼も最高評議会議員で、今も忙しく働いているはずだ。
「はい、はい……はい……わ、かりました」
いくつか相槌をうった後、兄は通信を切った。
「……なん、て?」
久しぶりに声を出したような気がする。掠れている声に自分で驚いてしまう。


「父上が見つかったそうで……今は、重体だと……」


生きている。生きてはいる。
けれど、「重体」という言葉は、辛うじてという言葉だった。